千葉県船橋市。今は分からないが、当時、ミニバスケットボール(小学生だけミニが付く)が盛んな地域だった。各学校とも4年生から部活動に参加可能となる。
3年生まで、いわゆる肥満児に限りなく近かった俺にある日姉が
「Tちゃん、何でもいいから部活に入って運動しなさい。」
と言われ、仕方なく入ることになった。
サッカー、陸上、バスケなどの列の中、たまたま知り合いが多かった。そんな理由でバスケを選んだ。入ってから知ったのだが、うちの小学校は全国屈指の強豪校だった。選手になって活躍するとか、そんな目標なんてまるでなかった俺はただ何となく1年間を過ごした。
5年生。相変わらずものすごく強い。県大会予選なんて100点ゲームが当たり前。スタメンはあっとゆう間に下がり、後はBチーム強化の場となる。当時のルールは、1クォーター7分間を4回繰り返す。選手は4回のうち、3回しか出られない。つまり1回は戦力が落ちる。
5年生になると、先輩方がポンポンシュートを決めるのを見て、自分もシュートが上手くなりたくなり、1時間早く練習に行きシュート練習をした。練習後も誰よりも遅くまで残り、シュート練習をした。ただシュートが上手くなりたかっただけ。でも監督には「こいつ、凄く努力してるな。」と映ったらしい。
とある日、ある大会に向けて5年生から一部1軍に引き上げる発表があった。
監督「まずはK。後はI。それからW。」
俺「えー--!」
監督「お前の努力を買った。」
前から分かってはいたが、1軍の練習は半端じゃない。何しろ全国屈指の強豪校だ。監督の檄が飛ぶ。最悪の練習メニューは1対1。相手より先にシュートを決めないと、永遠にディフェンスをやるはめになる。俺はシュートは好きだったが、ディフェンスは大嫌いだった。そんな俺だ。6年生にかなうわけがない。どんどん決められる。そんな俺に監督から
「てめえ、やる気ないなら下がれ。」
と檄が飛ぶとともに、パイプ椅子が飛んできた。
6年生になると、いわゆるスタメンというやつになっていた。ポジションはポイントゲッター。点取り屋だ。とにかくボールを集められ、シュートを決めまくる。前述の通り、選手は4クォーター中3回しか出られない。戦力が落ちる3クォーターに俺が入り得点力をあまり下げない作戦だった。チームは相変わらず無敵だった。
そんなある日、練習試合があった。何校かが集まり、試合を行う。試合はもちろんうちが優勢。まもなく試合終了という時、シュートを打った俺が、相手の足の上に着地してしまった。初めての捻挫。結構な重症らしい。
練習や試合を見学していたある日、
監督「お前、やれるの?やれないの?どっち?」
そう言われ、仕方なく練習に参加した。練習後、ソックスを脱ぐと、足首が真っ黒に内出血していた。それを見た両親が慌てて整形外科に連れて行く。
医者「骨折ですね。無理したんでしょうね。」
あれよあれよという間にギブスがはめられ、松葉杖を持たされた。俺はずっと放心状態。なぜだか涙が止まらなくなり、ずー---っと泣いてた。見かねた両親が監督に電話を掛け、俺に渡す。
監督「どうした。そんなに悲観することないだろ。」
俺「ぐすっ。ヒック。ぐすっ。」
監督「大丈夫だから。また頑張ろうな。」
あの時、何であんなに泣いたんだろう。多分、しばらく練習や試合に参加できない悔しさだったんだろうな。
チームは全国大会まで進んだ。当時は交歓大会といって、優勝とかが無かった。
今でも不思議なのだが、俺はどんな大会でも、準決勝までは大活躍するのだが、何故か決勝戦では全く活躍出来なかった。いわゆる勝負強さが無かったのだろう。周りは何も言わなかったし、むしろ、ポイントゲッターだからマークが特にきついんだと言う声が多かった。でも当時は子供ながらに悩んだものだった。
そんな懐かしい小学校時代の話。